
シングルマザーでの子連れカナダ留学から30年。
6人の母としての起業と仕事を経て見つけた「本当の豊かさ」
1. 日本の教育システムと、母としての決断
私がシングルマザーで子連れカナダ留学をするために海を渡ったのは、29歳の終わり。子供たちがまだ3歳と5歳の時でした。
離婚を経て、私だけ旧姓に戻したため、どこへ行っても「なぜお子さんと苗字が違うのですか?」と聞かれました。
離婚しているからと告げると、「こんなに小さいのに離婚なんて子供たちがかわいそう」と言われることもしばしばでした。
今から30年も前の話です。
当時はまだ離婚が今ほど一般的ではなく、どこへ行っても「我慢の足りない自分勝手な母親」というレッテルを貼られているような、居心地の悪い思いをしました。
幼稚園の名簿は「欄外」に
長男が3歳になり、3年保育の幼稚園に通い始めたときのことです。
当時配られた全園の保護者名簿には、園児の苗字名前の横に両親の名前を入れるスペースしかありませんでした。
苗字が違う私の名前は枠に入りきらず、なんと我が家だけ「欄外」に記載されることに。
その前代未聞の欄外記載によって、「あそこはシングルマザーだから」と幼稚園中で噂になり、一躍有名人になってしまったことさえありました。
自然保育で見違えるほど元気に

その頃、長男は体が弱く、1週間幼稚園にいくと風邪をひいて次の週はお休み、を繰り返していました。
熱性けいれんを何回か起こしていたので、「何とか丈夫になってほしい」という一心で、埼玉県桶川にある自然保育の園に通わせることにしました。
そこは古い日本家屋を使って、子供たちは裸足で外を駆け回ります。
畑から収穫したものをなるべく使い昼食を作り、時には庭で焚火をして魚を焼いたりしてくれました。
おかげで体の弱かった長男は見違えるほど元気になりました。
「管理的な小学校」への違和感と決断
しかし、1年ちょっと通い卒園が近づいてきたころ、そのまま地元の小学校に行かせるのを躊躇しました。
そこの園から小学校に進んだ子たちの親から、小学校のあまりのシステムの違いに子供が戸惑うことが多いと聞いていたからです。
「ここの園では輝いていた瞳がいつの間にか消えて、学校に行きたがらないこともある」という話に、私は考えさせられました。
一人ひとりの個性をものすごく大事にしてくれてのびのび過ごした自然保育から、急に日本の管理的な学校システムに変わることに、子供なりに苦労するようでした。
小学校入学を控え、私の中では「海外で、のびのびと子供たちに育ってほしい」という思いが強くなっていきました。
かつてイギリスとアメリカに留学していた経験があった私は、海外での暮らしや個性を大事にする一面をよく知っていました。
そして、とうとう日本を出る決意をしたのです。
2. 「子供がいるから無理」と言われて
最初に希望したのはアメリカでしたが、「子連れ」という理由で学生ビザは却下されました。
再申請を試みましたが叶わず、次に選んだカナダでも、面接で頑張ったものの結果は同じく却下。
「3歳と5歳の子供を連れて勉強などできるはずがない」「そのまま居座るつもりではないか」というのが理由でした。
けれど、ここで諦めたら一生悔いが残る。
そう思った私は、当時3ヶ月有効だったビジタービザを頼りに、「とにかく行って生活を整え、現地から再申請して認めてもらおう」と決断。
1997年の12月、住まいを引き払い、幼い子供たち二人の手を引いて、知り合いもいないカナダへ渡りました。
タイムリミットは3ヶ月。大晦日に見つけた「居場所」
そこからは必死でした。
3か月の間に生活を整えて再申請しなければ、ビザが切れて帰国しなければなりません。
ところが、すぐに壁にぶつかりました。
シングルマザーで子連れカナダ留学、しかも小さい子供が二人いて仕事もしていないビジターの私に、部屋を貸してくれるところはなかなか見つかりません。
その上、二人を一緒に預かってもらえる空きのある保育園もありませんでした。
ようやく部屋を借りることができたのは、年末の31日。
デパートで片手にもてる限りのブランケットを買い込み、何もない部屋のカーペットにブランケットを敷いて寝ました。

初めて迎えた自分たちの住処での朝は、お正月でした。
けれど、その頃こちらではお正月はどこもお店が閉まっていて、それを知らなかった私は食べ物を見つけるのさえ一苦労。
子供たちが小さくて、あまりお正月の意味が分からなかったのが幸いでした。
とんでもない新年早々のスタートでしたが、とにかく「自分の居場所」ができたことが嬉しくて……。
やっと見つけたコンビニのようなお店で何とか食べられそうなものを買い、その日が早く終わって次の日に買い物に行けることを願っていたのを、今でも鮮明に覚えています。
実績を積み上げ、念願の学生ビザを取得
そして、やっと保育園が見つかり、朝子供たちを保育園に連れていき、私は英語学校へ。
シングルマザーで子連れでも休まず学校に通い、子供たちも保育園で馴染んで問題なく過ごしていることを証明し、私は専門学校の入学許可書も携えて……やっとの思いで、念願の学生ビザがおりました。
その後、子供たちもこちらの生活に慣れてきたので、以前より興味のあったシュタイナー教育のウォルドルフスクールに通い始め、それを機に郊外に引っ越しました。
私も専門学校から地元のカレッジへと進学。
そして、子供たちのホッケーチームのスポーツクラブで出会った今の夫と一緒になり、移民申請を経て、ようやくこの地に根を下ろすことができました。
3. 猛勉強の末の合格、そして仕事への情熱
一緒になった夫には離婚して3人の連れ子がいました。
子供たちは元奥さんの家と1週間交代で行き来をするので、我が家は「5人の子供がいる1週間」と「2人の子供がいる1週間」の繰り返し。
そのうちに彼の長男と次男が我が家にフルタイムで住むようになり、下の女の子だけが1週間ごとに来る生活になりました。
6人の母として、不動産業への挑戦
そして、私にとって3人目の子供が生まれ、6人の母となった私は、実家が不動産業を営んでいた経験を活かし、カナダ(BC州)の宅建資格を取ることを決意しました。
猛勉強の末に見事合格。
住み込みのお手伝いさんとシッターさんの力も借りて、まだ2歳にもならない三男を預け、不動産業を開始しました。
久しぶりに復帰した「仕事」という世界に、私は夢中になりました。
留学支援会社の起業と、湧き上がる使命感

さらに、同じように夢を持って海を渡ってくる若者の未来をサポートしたいという一心で、留学キャリア支援の会社も起業。
ダウンタウンにオフィスを構え、仕事は私の生きがいとなりました。
とにかくすごく忙しくて、仕事も家もフル回転の日々。
この頃の私は、睡眠時間がわずか4〜5時間というのはざらでした。
「自分に何ができるのか」「自分がこの世に生まれた使命は何なのか」「どう世の中や若い人たちに貢献していけるのか」
そんな、自分の内側から湧き上がる「不思議な力と情熱」に追い立てられるかのように、私は仕事という名のゴールのないレースを、ただやみくもに走り続けていました。
4. 強制終了の後のバーンアウト
そんな中で、ある日突然、ダウンタウンの真ん中で事故は起こりました。
交差点を歩いて渡ろうとした私に、よそ見運転のトラックが突っ込んで来たのです。
記憶を失い、気がついたら人だかりの中。
救急車で運ばれ、幸い骨折はなく全身打撲で済みましたが、生身の体がトラックにはねられた衝撃は凄まじいものでした。
少しの音でも頭痛が襲い、首と腰の骨がずれ、慢性の痛みに悩まされる日々が始まりました。
事故の後遺症と会社の閉鎖
そして何よりも辛かったのは、心血注いだ自分の会社を閉めることになったこと。
それまで必死に築き上げてきたものが、一瞬にして崩れ去ったような喪失感。
事故の後遺症と、精神的な痛手。
私はバーンアウト(燃え尽き)状態に陥りました。
それは、今まで全速力で走り続けてきた時間の渦から強制的に引きずり出され、一人ぽつんと無人島に打ち上げられたような感覚でした。
5. 痛みの先に見えた「置き去りにしていた宝物」
けれど、体の痛みが少しずつ引いていくとともに、見えてきた現実がありました。
そこには、私が知らない間に「自分で出来ることがたくさん増えた息子」の姿と、私が置き去りにしてきた「家族との時間」がありました。
ビジネスの成功よりも大切なもの
それまで何よりも優先していたビジネスの電話やミーティング。
「あの時間は一体何だったのか」と、私は愕然としました。
それからは、「絶対に学校の行事は見逃さない」「子供のスケジュールを一番にする」と心に決め、今までの時間を取り戻すかのように生きる日々を重ねました。
6. 53歳からの、自分らしい暮らしの模索
そして、三男が高校を卒業し、大学に行くために家を離れることになりました。
私はその時初めて、「これからどう自分の人生を生きていきたいのか」を自分自身に問いかけました。
その時、私は53歳になっていました。
島暮らし、自然と共に自分らしく生きる日々へ
あれから数年。
今の私の生活は、鶏たちの鳴き声から始まります。

かつて携帯電話とスケジュールに管理されていた私が、今は自然の中で、自分に素直に、自分らしい暮らしや生き方を大切にして生きています。
ここでは、自分の使命を探して走り続け、一度自分を見失ってしまった私が、「私」を再確認して、自分の生き方を見つけ、カナダの小さな島で自然と共に、本当の意味での「自分らしい暮らし」を築いていくまでの経験をシェアしていきたいと思います。
